写真写りを良くしたい人へ

写真では他人になりきることもできる

 
集合写真を見ると、どうしても自分の写真写りが悪すぎるとお嘆きの方へ…

普通に人と接していると表情が自然体なのに、写真だと無表情で緊張したぎこちない顔になってしまうことはよくあります。

一つの理由は、カメラのシャッターを押す人が緊張していること。カメラマンの緊張がそのまま撮られる人に伝染してしまいます。

もう一つは、撮られる側が緊張してうつろな状態で撮られていること。まるで不審者を見つめるがごとくカメラのレンズを凝視してしまいます。

その両者に共通する問題は、撮る人撮られる人の間にコミュニケーションがあるかどうかです。つまり、カメラに対してではなく、撮る人と撮られる人の間にコミュニケーションが存在してることが肝心です。

例えば、私が写真を撮るときも撮られるときも、必ず会話をしながらすすめます。会話をしながらだと、カメラに対して緊張しなくなります。

画面右(もしくは最下部)のプロフィール写真も、カメラマンと会話をしながら撮られた写真です。

もちょっとレベルを上げると、他人になりきってイメージを変えるという方法もあります。男性が女装して女性に見せることもできますね。

いつもの素の自分ではなく、自分が見せたい姿をイメージし相手と接することで、外見に現れるオーラが変わってきます。

どうせなら、恥ずかしくなる次元を超えるくらい、有り得ない他人をイメージして撮られた方が、上手くいくかもしれませんよ(笑)

 
じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

人生のメンターを探す前に、まずは必死に生きてみる!

まずは必死に生きてみる

 
今までに、自分の一生を左右するような人(メンター、師匠)との出会いがありましたか?

自分の今までを振り返ってみると、人生の転換期では必ず、必要な時に、必要な人が、必ず目の前にあらわれました

いわゆる、「人生のターニングポイントに現れるキーパーソン」です。しかも、必要な時に、必ずどこかから現れます。

ただし、そういう人が現れる時には同じような条件が必要です。それは、必死に生きていることです。

必死というのは、常識外れ的な、他人がぜったいやらないようなことをして、周囲の人がおもわず応援したくなるような生き方です。

最初は、いろんなノウハウやマインドをアドバイスしてくれる人が出てきますが、そうした人はまだ人生を変えるほどのメンターではありません。

そうした応援者たちが口コミで話を通してくれることで、次に思いもしなかったような雲の上の存在な人が、ある時、絶好のタイミングで現れてきます。

時によって、それは人ではなく書籍というカタチで、歴史上の偉人やまったく住む世界が違う人だったりもします。でも、その存在は自分にとってかけがえのないメンターとなります。

ひょっとしたら、多くの人がそういった人生を変えるような存在の人に出会うために、一生懸命に勉強をして良い環境(学校や会社)へ入ることが大切だと思っているかも知れません。

私の経験上で言えるのは、人との出会いは環境ではありません。その人に必然的に出会えるよう、必死に生きることです

 
じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

時間は未来から過去へ流れ落ちていくという話

当たり前のことを疑ってみる

 
誰もが時間は過去から未来へ流れていると思い込まされています。これはタチの悪い洗脳です。

その人の過去の行いが未来の出来事に影響を及ぼす、というのが西洋近代哲学の呪縛的価値観です。とってもキリスト教の匂いがプンプンしますよね。説教っぽい(笑)

未来とは、未だ来ないもの。過去とは、過ぎ去ったもの。未だ来ないものから、過ぎ去ったものへと時間が流れ落ちていくというのがより自然な感覚だと思いませんか?

過ぎ去ってしまった過去は、どうやっても変えようがないんです。でも未来は未だ来ないものなのだから、いくらでも選びつかみ取ることができます。

私たちは、時計の針が動いて円周に刻まれた時間を通り過ぎていくと思い込んでいます。これはキリスト教世界の創作です。

そもそも時計の針は動きません。人類が時間を知るために作った日時計は、針が動かずに時間軸である太陽が動いて時間を示します。

自分が存在する今現在の「瞬間」は常に一定であり、未来から時間が落ちてきて過去に流れる落ちることで、その「瞬間」が推移していきます。現実に私たちが認知できるのは、まさに今この「瞬間」と過ぎ去った過去だけです。

時計の針のように過去から未来へと時間が流れるのではなく、今この「瞬間」である時計の針の場所を、未来から過去へと時間が流れ落ちているというのが、人類がもともと感じていた自然な時間感覚です。

そう考えると、過去のおこないが未来へ影響するなどという説教じみた話はまったくの作り話であり、実は今この瞬間を生きている私たちが、上から降り注いでくる未来を受けているという自然本来な感覚に気がつきます。

過去の経験をもとに未来を予測して行動するというのは当たり前のことですが、過去の行動の結果が未来の状態を決めているというのは、まさにタチの悪い悪質な洗脳と言えますね。ホントに笑うに笑えないひどい話です。

 
じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

AIによって時代はどう変わっていくのか?

人はストーリーで世界を理解している

 
囲碁や将棋の世界では、もはやAIに太刀打ちできる人間がいないという状況になりました。どうやらAIは人間を超えたのではないかと思う方もいるでしょう。しかし現実として、人とAIを同じ土俵で比較することにそれほどの意味はありません。

それは、人はストーリー(物語)によって世界の森羅万象を把握しているからです。人は出来事をストーリーで記憶し、ストーリーで情報処理し、ストーリーで伝達しています。その大きな例が、世界を擬人化して理解する宗教や哲学、科学です。

一方のAIにはストーリーはありません。あるのは膨大なビッグデータと、それを「超」高速かつ合理的に処理する計算能力です。そもそも人とは異なるプロセスで動いています。AIは人をデータベース化して理解しています。ところが、人はAIを擬人化して理解しようとしています。

人は自分の目で見たり、耳で聞いたり、手で触れた出来事を、脳に伝えて情報処理をします。その情報インプットが時系列に沿っておこなわれています。それらの個別な情報は、脳内でストーリーとして組み立てられることで意味を持ってきます。

さらに自分では理解できない出来事に遭遇すると、神様というキャラクターを作り上げ宗教で説明をします。何度も再現性のある出来事ならば、そこに共通性や法則性を見いだすことで、哲学や科学という言葉で説明をします。

これらはすべてストーリーです。人はストーリーがないと世界のすべてを理解することができません。だからAIに対してもストーリーで理解しようと試みます。

人とAIが将棋や囲碁の対戦をし、人が負けたというのは当たり前のこと。あたかもデータベースのような高度に合理的なストーリーを組み立てる能力に秀でたプロ棋士立ちは、その思考過程が人間離れしているがために、逆にAIに勝つことができません。

要は、膨大な電力を背景とした計算能力を持つAIに対して、3食のご飯で動く生身の人間は勝てないのです。人と車でスピード競争が成り立たないのと同じこと。

将来、今ある職業の多くがAIによって失われるという危惧があります。これは、江戸時代の飛脚が現在のインターネットや物流に置き換わったのと同じ事です。人の思考過程が、より合理的に処理できるAIに置き換わるということです。

となると、中世以前は神様のなせる技という宗教で説明できたことが、産業革命によって科学という言葉に置き換わったような現象がこれから起きるかもしれません。今、時代の流れが変わりつつあるというのは、こういうことが起きようとしているのだと思うのです。

 
じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

読書は読んで試して気づいて成長するツール

読書で他人の成功体験をパクっちゃえ!

 
数年前まで年間200冊以上の本を読む人でした。量を読むことで何かが得られると信じ切っていました。

こういう読書スタイルって、自己啓発好きなサラリーマンに多いタイプですね。何冊読んだかを競うような読み方です。

正直なところ、今はそれほど本を読んでいません。週に1〜2冊くらいです。その代わりに、以前とはまったく違う本の読み方に変わりました。

1冊の本をパラパラと自由に線を引きつつ汚しながら読み、気になったことを実際に試してみるという読み方です。たいていの本は最初から最後まですべてを読んでいません。

読書をすることで何かを得たいと思うなら、一つの本から一つの事を得るくらいの気持ちで良いと思います。

その本の1割しか読まなかったとしても、それを実践してみて何かの気づきを得た後に、残りの9割を読めばOKです。

読書は、読んで、試して、気づいて、(自分が)成長するツールです。本の事情なんてのはどうでもよく、まずはそこから自分が何を得て成長できるかに注目すべきでしょう。

そういう意味で、読書感想文なんてのは趣味の領域の読書です。本の内容をまとめたところで、そこから何も得られません。自分で何らかの行動をしてみた結果によって、初めて何かが得られます。

本に書いてあることは、自分がなし得ない経験をした人のノウハウやマインドが詰まった、いわば他人の脳みそをコピーしたお宝の詰まった指南書。どんどん他人の成功体験をパクリましょう!

その他人の蓄積したノウハウやマインドを追体験し、その結果として自分が何か気づきを得る。実践した気づきを得ることこそが読書の落としどころです。

 
じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ