学校のあいさつ運動で苦笑してしまう件

 
小学校でも中学校でも、はたまた高校でも、良い学校の基準は「あいさつ」とされています。

知らない学校へ行ったときに、生徒や児童が「こんにちは」を声をかけてきたら、あぁなんて素晴らしい学校なんだと感じちゃうわけです。

実際に「うちは挨拶がよくできている」という学校でアンケートを取ると、「あいさつができている」という生徒の自己評価が6割もあれば驚愕のラインです。

そもそも子どもが大人にあいさつをするというのは、ある意味でとても無理をしています。しかも、知らない人に挨拶をするというのは、強制でもされないとできるものじゃありません。

仮に、もしも子ども達が普通に街で知らない大人に「こんにちは」と挨拶するなら、それは防犯的には「知らない人に挨拶するのは止めなさい」となりますよね(苦笑)

挨拶というのは、自分と他人や地域という関係性の視点がないと、自然に口から出てくるものではありません。学校で子ども達が大人に挨拶するというのは、口悪く言えば駅前などの募金運動で「募金をお願いします」というのと同じ脳の使い方です。

つまり、生徒や児童が学校への帰属意識から、学校へ訪ねてくる他人へ「この学校は素晴らしいんですよ。」と表現している行為です。お店に入ると店員から「いらっしゃいませ、こんにちは」というのと同じですね。

挨拶ひとつで屁理屈を言うなとお叱りをうける話ですが、自然体で他人へ挨拶を交わすというレベルへ上がるには、この学校への帰属意識を外しても挨拶ができるかというマインドを育てることが必要です。つまり、大人がそういうマインドで挨拶する姿を見せ、子ども達に感化をしていかないとキビシイという話です。

学校の正門で、若い教員やPTAの保護者さんが「あいさつ運動」の旗を持ちながら挨拶をしている中に混じっている自分も、なんかこれ駅前の募金運動だよなと心の中で苦笑しています。

そもそも、「あいさつ」を運動と言っている時点で、これ昭和ですよね。

 
じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

やはり本は読んだ方が良いのでしょうか?

 
やはり本は読んだ方が良いのでしょうか? 結論から言えば、どっちでも良いと思います。

本をたくさん読んだとしても、それほど人生は劇的に変わりません。司馬遼太郎さんの歴史小説をすべて読破したとして、人生はなにも変わりませんし、西村京太郎さんの推理小説を読破したとしても、鉄道やJRについて学べるものは多くありません。

ではなぜ本を読んだ方が良いのかというと、それは他人(著者)の思考法を自分の脳にインストールすることで、行動するときの自信がつくからです。

人生を変えるために必ず必要なことは、行動することです。何らかの行動をしなければ、人生は変わりません。とても立派なことを考えたとしても、行動しなければそれはなにも無いに等しいのです。

行動するために本を読むのであれば、本の全てを読む必要はありません。読んでいて感動したり、何かに感化されたとしたら、すぐに本を置いて小さな行動すれば良いんです。その感化された文章を引用してSNSに呟いたり、読書ノートにメモしたり、紙にマジックで清書して目の前の壁に張り出したり。。。

健康法の本を読んで、通勤時に一駅分を歩くと良いという文章に感銘したなら、早速明日の通勤からやってみようと固く決意するよりも、SNSに明日は一駅分歩くぞ!と書き込んだり、一駅分を歩くにはどれだけ前倒しで自宅を出れば良いかを計算するほうが、よほどか現実的です。

それはビジネス本や自己啓発本だけでなく、小説でも同じ事。主人公の洒落た台詞や著者の文章にお気に入りがあれば、すぐにその表現を使ってみれば良いんです。鏡の中に自分に向かって話しかけても良し。それだけで、小説の中の人物にリアリティが増してきます。

私が以前、年間200冊以上の本を読んでいた経験から言うと、そんなに本を読んでも単なる時間の無駄です(笑) 本を読むことが大切なのではなく、本を読んでどう行動したかが重要なのです。そのことに気がつくまで、私は30〜40年以上の月日を費やしてしまいました。

人と違った面白いことを言っても、自分の人生はかわりませんし、人と違った考え方を口にしたところで、自分の人生は何もかわりません。人と違った行動を起こすことで、自分を取り巻く時間や環境が大きく変わってきて、結果として人生に変化が生じます。

昔は、本を読むと頭でっかちのバカになると言われていたんですね。何もないゼロから戦後の日本を興してきた先輩方は、行動しなければ何も変わらないことを肌身感覚で知っていたのでしょう。それは、どんなにテクノロジーが進んだ現代でも同じことです。

 
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