1970年代、広島市内の小学生はどのように原爆のことを教えられたか?という体験談。

1970年代、小学3年生から6年生の夏まで、僕は広島市内の江波小学校に通っていました。

当時住んでいたのは、路面電車(広島電鉄)の江波車庫の近く。自転車で広島市内の至る所に出かけられるロケーションです。

で、当時を思い出してみると、広島市内に住んでいるからと言って、特に原爆の教育を受けていなかったんですよね。

もちろん昔の戦争(太平洋戦争)のことは知ってましたよ。なぜなら当時はまだ防空壕が残っていて、立ち入り禁止だったけど中に入って遊んでましたから。

それに街中には白い服を着た傷痍軍人の乞食がいましたしね。戦争の痕跡は生活の中にまだ普通に残っていた時代です。

で原爆のことですが、なんと小学校のすべての教室に漫画『はだしのゲン』が置いてあって、みんなその漫画を読んで原爆のことを知ったのでした。

なので、原爆という呼び名ではなく「ピカドン」です。

『はだしのゲン』の中で江波の練兵場で遺体を焼くシーンがあったのですが、なんと僕が住んでいたアパートはその練兵場の跡地でした。

もうピカドンが生活の一部ですよねw

あと、江波小学校は江波山に遮られてピカドンの熱風からまぬがれた貴重な場所でしたので、学校図書室には当時の写真入り医療記録が何冊も残っていて、僕はそれもよく見ていました。

よく修学旅行で広島の原爆記念館を見学したあとに気分が悪くなたっという話を聞きますが、僕はそれ以上のエグイ写真を日常的に見ていたので、なんであんな汚れたマネキンを飾った展示を見て気分が悪くなるのかを理解できませんでした。

そのお陰なのか、今でも腐乱ものはまったく平気です。便利屋でそういう仕事もしてましたしね。

広島市内で育った子供は、たぶん原爆についてそれほど重く捉えていないのではないかと思っています。いや、それは私の主観的な意見ですけどね。

あと僕が小学生の頃は、まだ原爆ドームの中に忍び込めたくらいです。ただのガレキしかありませんでしたけど。

原爆のことがあれこれと日本中の話題になってきたのは、平成に入ってからかもしれません。今じゃあのガレキが世界遺産ですから正直なところ驚きです。

もしも今、広島の原爆を学びたいを思うなら、迷わず『はだしのゲン』を読んでください。

当時も今のような普通の人々の生活があって、それがある瞬間に突然に原爆で無茶苦茶になり、でも生き残った人たちはその後も人生を歩んでいたという民衆の記録です。

原爆を知るには『はだしのゲン』以上のものはないと感じています。

それを考えると、当時の小学校教室すべてに『はだしのゲン』が全巻置いてあったのは、すごく的を得た教育だったのでしょうね。

じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

40、50代で再起する人のために伝えたい復活マインド。48歳で落選したら無一文は想定外の人生だった~その5 日雇いバイト「とにかくなんでもやる」

 →前回 その4 深夜トラック運転手「どんなときも終わらない仕事はない」

今回は日雇いバイトの話です。

サラリーマンや派遣社員の休日副業の定番として、日雇いバイトをやっている方も多いでしょう。

私も深夜トラック運転手の休日に日雇いバイトをやっていた時期がありました。

ネットのバイトサイトに登録しておけば、毎日のように日雇いバイトの斡旋メールが届きます。

仕事の内容にもよりますが、交通費別途支給で8,000〜10,000円くらいになります。

棚卸しなどの単純仕事は苦手だったけど、お店の売り子みたいな接客仕事はとても楽しかったです。

子供向け屋台で輪投げ屋をやった時は、凄い輪投げの猛者(お婆ちゃん)に感化され、輪投げの極意をマスターしましたw

日雇いバイトの利点は、仕事そのものがお気楽モード。 今まで30年間まじめ?に公務員生活をしていた私には、このマインドはとても新鮮でした。

会社は安定した生活を保証してくれます。その代わりに自分の貴重な人生を会社に差し出さなくてはいけません。

この両者の異なる世界観を知ったことはとても勉強になりました。

正社員という安定は、実はとんでもなく自身の身を削っていることなんだと。不安定というリスクをとるか、人生を削るというリスクを取るか、これは難しい選択です。

今まで公務員としての人生しか知らなかった自分にとって、日雇いバイトの経験は貴重な社会勉強になりました。

ただしそれはサラリーマン生活の表と裏を知っていたから解ったこと。日雇いバイトしか知らない人生は、それはそれで大変だし将来への希望も持ちにくいです。

とれだけ情報や知識があったとしても、異なる環境下で生きていくことは想像以上に戸惑います。

また、なんとなく場の雰囲気に流されて将来を考えない楽な方向へ向かいがち。

でもいつかは再び再起するぞという気持ちがあるなら、自分の行動にNG(やりたくないこと)を作らないこと。どんなことであっても目の前のチャンスを掴み取る貪欲さが必要です。

まして40代50代には人生の楽な選択肢がほとんどありません。チャンスは困難なことの中にしか潜んでいないのです。

今までとは異なる世界で新たなチャンスを掴むには、いったん考える前にとりあえず即行動するという習慣をつけるべき。

ルール4「とにかくなんでもやる

次回は音楽指導(プロボノ)の話です。

じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

40、50代で再起する人のために伝えたい復活マインド。48歳で落選したら無一文は想定外の人生だった~その4 深夜トラック運転手「どんなときも終わらない仕事はない」

 →前回 その3 PTA「無駄なことにチャンスがある」

今回は深夜トラック運転手の話です。

第2回目で書いた、新聞折込チラシを新聞販売店に配達する深夜トラック運転手に就職した件ですね。

それまで30年間ほど自衛官だったわけですから、48歳になり全く未知の民間会社で新しい仕事を始めたわけです。

トラック運転手というと単純に荷物を積んだトラックを運転すれば良いだけと思うかもしれません。

ところがそんな簡単な仕事では月に20万円も稼げません。それは深夜トラック運転手でも同じです。

私が勤めた新聞折込広告を新聞販売店へ配達する仕事とは、30〜50種類の異なるチラシを積んで深夜のうちに40〜50店へ配達する仕事です。

曜日によってチラシの量は違いますが、多いときは3〜4トン分のチラシ広告を積んでます。それはトラック荷台のチラシで自分の身長が埋まってしまうレベルの量ですね。

そのチラシを配達ルートと各店に降ろす伝票を考慮して、間違いなく降ろせるように並べて積まなければいけません。

そして、新聞販売店の店先で伝票を見ながらチラシの山の中から必要なものを抜き出して降ろしていきます。

チラシは2000枚ごとに梱包されてますので、例えば伝票に800枚とあれば2000枚の中から2/5だけ抜き出して紐でくくり降ろします。

そうして40〜50店舗を周ってチラシがすべてキレイにして無くなれば仕事は終了。各店舗ごとに異なる種類と異なる量を正確に配達するのは、かなりの特殊技能です。

仕事は完全歩合制ですが、仕事量をこなせると認められなければ仕事量(賃金)は増えません。私の場合は手取りで30~40万円/月くらいでした。

毎日15時に出勤し、3〜5時間かけてトラックにチラシを積載。その後、朝までかかって配達します。マジで終わらないときはお昼過ぎまでかかってしまったことも… もちろん徹夜のまま翌日の仕事に入ったこともありました。

積載するときにフォークリフトを使えることもありますが、基本的にはすべて数トン分を人力&手押しカートで行います。

もちろん腰を傷めないよう、全身(特に腹筋)を使って重たい紙チラシを運びます。

実はこの仕事をしているとき、微妙ながら腹筋が割れてました(笑) というか、お腹の無駄な脂肪が激減しました。

この話から得られた経験は、40、50代になってからいかに新しい仕事と向き合うかということ。

それまでに30年分の社会人経験があるものだから、どうしてもモノの考え方に自分なりのルールができてしまいます。40、50代ともなると、それが頭の固さになりがち。

でも稼げる仕事をするためには、どうしても普通の40、50代が敬遠するようなキツイ仕事をせざるを得ないでしょうね。

何を言われても謙虚に20代のごとく仕事をする。これが素直にできない人は再起は難しいかと。

そしてどんなに手際よく仕事が出来なくても、途中で諦めずにどうすれば出来るかを試行錯誤しながら必死にしがみつくしかありません。

よく世の中には楽にお金儲けができると豪語する方がいますが、そういう人はごく一部の限られた運の持ち主か、もしくはすごく優秀で頭の良い方です。

私は普通の高卒な凡人なので、とにかく諦めないことを信条にして新しい仕事に立ち向かってました。

そして仕事がうまくいかず朝になっても終わらないときは、いつもこの言葉を自分向けて口ずさんでました。

ルール4「どんなときも終わらない仕事はない」

次回は日雇いバイトの話です。

じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

未来があるから今がある。と考えてごらん!

未来は決まった運命ではなく無数の可能性だ。何も考えず頭を固くすれば可能性は狭まり、柔軟に考え行動すれば可能性は広がる。

過去に行動した、または行動しなかった結果が今だという考え方がある。でも僕はそうは思わない。

未来は無数の可能性があって、今の自分がどんな未来を目指すかで将来が変わってくる。すべては今どう行動するかだ。

大切なのは今の自分がどう行動するかであって、過去の行動の結果ではない。人生は常に一方通行だ。

子供の将来のためにと、習い事や旅行とか(親目線の)いろんな選択肢を与える人がいる。

僕は親自身が豊かな可能性を広げれば子供にとって良いローモデルになると考え、子供への選択肢はほとんど考えてない。

僕は今現在の自分か置かれた現状は、過去の結果ではなく将来への通過点だと思っている。もし人生にゴールがあるとすれば、それは僕が死んで数世代先のことだろう。

たった一つでいいから、次の世代、またその次の世代へと、誰かの記憶に残る(可能ならば影響を与えられる)生き方をしたい。

そのためにも、自分の家族には僕がどう我儘に生きているかを全力で見てもらいたい。僕が自分らしく生きれば、子どもたちも自分人生を生きるだろう。

…とは言うものの、子世代は難しいけど孫世代くらいには信託財産を残せられるよう一生懸命に頑張ってますw

じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

40、50代で再起する人のために伝えたい復活マインド。48歳で落選したら無一文は想定外の人生だった~その3 PTA「無駄なことにチャンスがある」

 →前回 その2 職探し「自分の直感に従え」

今回はPTAの話です。

4月末の選挙が始まる前、息子が通ってる中学校PTAから副会長(翌年に会長)のお誘いを受けてまして、快くお引き受けしていました。

私の場合、何かをお願いをされたら基本的にお断りはしません。

相手が私を見て、この人なら任せても大丈夫と考えたわけですから、たぶん自分にはその可能性があるわけです。

よく、今は忙しくてお引き受けできないというパターンですが、私はそれを禁句にしています。

ホントに忙しいときは、今こういう状況でなかなか時間が作れないのですが、そこは上手く時間調整できるようルールを変えさせていただいてもよろしいですか? と訊ねています。

出来ない理由を言うのではなく、こうすれば出来るという発想ですね。これはとても重要なことです。

今の自分が置かれた環境は、何かを決断して未来への路線を変えた途端に大きく劇的に変化します。

つまり、私がPTA会長をお引き受けした時点で、それまで予測されてた未来の姿が変わってしまうということです。

だから今の忙しくて出来ないという未来予測の前提そのものが崩れてしまうわけですね。

もしも引き受けなければ、未来の予測はなにも変わりません。もちろん運勢も変化なし。

多くの人は現状を変えるのことをとても嫌がります。それがどんなに不利な状況であっても現状に留まろうとする傾向があります。

でも現状を変えるためには、今まで自分が想像できなかったことを始めるのが一番。

選挙に落ちたのだから、当然ながら今までとは違う流れの人生を築かなくてはいけません。

多くの方は男性がPTA活動するのはサラリーマンとして無駄なことだと考えています。

地元で仕事する農家さんや個人商店だと、名誉職や地元卒業生の順番とかでありかなという感じです。

でもその無駄なことにこそ自分が想像もできなかった大きなチャンスがあるのです。

つまり、自分の未来を大きく変える変革のチャンスです。

今が落ち目の人なら人生復活のきっかけになるし、上昇気運な方ならさらに運を上げる上乗せになるでしょう。

ただ一つ、それがチャンスにならないパターンもあるので注意してください。

それは「子どもたちのため」みたいに言い訳をする人です。特にPTAにありがちですね。

行動するのは自分自身なのに、子供という他者を出して言い訳してはいけません。

そうではなく「面白そうだから」とか「違う世界に興味があるから」のように自分を主役にします。

これはPTAを例にして話しましたが、町内会や組合活動やボランティアなどでも同じです。

ちなみに私は、来春から小学校のPTA会長をお引き受けしました。

今までの高校・中学校での経験から、ゼロベースでの様々な改革を考えています。

これも無報酬で無駄なことでしょうが、そこには大きなチャンスがあるに違いないのです。

ルール3「無駄なことにチャンスがある

次回はトラック運転手のお話です。

  →  次回に続く

じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

三菱エアコン霧ケ峰でFL表示が出て運転できない件の顛末

年末の大掃除。エアコンのフィルター掃除をする方はご注意くださいませ。

うちの三菱エアコン霧ケ峰ですが、いつものように息子がフィルター掃除をして毎度のごとくセットしなおしたところ、、、

FLのエラー表示が出てエアコン運転ができなくなってしまいました。

取説によると、この症状は上下ルーバー(羽根)がちゃんと取り付けられていないときに起きる症状とのこと。

ところが取説の親切すぎる説明どおりにセットし直してみても、肝心のFL表示が消えてくれません。

つまり、この年末の寒空の下、いや寒い家の中でエアコン暖房が使えないという非常事態。

さっそく翌日にサービスセンターに電話して直近で修理に来てもらうことになりました。

年末の12月30日。こんな年末にちゃんと修理に来てくれる三菱さん、ほんとに助かります。

で見てもらったところ、上下ルーバーがちゃんと取り付けられているかを確認するセンサー部品の不具合とのこと。すぐに部品交換をして直してもらいました。

修理の人曰く(あとで嫁はんから聞いたのだけど…)、年末の時期は大掃除でちゃんとフィルター等が取り付けなおしできなくFL表示での修理依頼が多いとのこと。

でもホントに部品が壊れて交換修理するのは珍しいそうです。

我が家は24時間エアコン運転してるからね。普通のお宅の倍以上はエアコン運転してます。だからかな?

ちなみに修理でかかった金額は、請求総額14,410円(税込)。
他大手家電メーカーと比べると出張料が破格に安い!  
内訳は以下の通り。

  • 技術料 9,900円
  • 部品代 400円
  • 出張料 2,800円
  • 消費税 1,310円

僕もリフォーム業やってるので判るけど、会社としては最低でも税抜25,000円はもらわないと割が合わないものです。さすがに老舗の三菱さんは太っ腹。というか他で儲けてるんだよね。

家電製品が壊れるという「年末あるある」。みなさんもご注意あそばせ!

じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

40、50代で再起する人のために伝えたい復活マインド。48歳で落選したら無一文は想定外の人生だった~その2 職探し「自分の直感に従え」

 前回 → その1「死ぬ以外はすべてすり傷」

今回は仕事探しのお話です。実は私、48歳にして人生で初めての職探しをすることになりました。

前職の自衛隊音楽隊は、高校3年生のときにオーディションを受け、当時は誰でも100%合格の自衛官採用試験で就職したというか、そのまま高校からスライドしたみたいな感じで自衛官になりました。

もし自衛隊音楽隊へ入らなかったとしても、学校(工業高校電気科)が推薦枠を持つ会社へそのまま就職していたことでしょう。

そして公務員には失業保険がありません。クビにならない限り雇用が保証されています。定年退職後の仕事斡旋もあり仕事探しを考えたことがありませんでした。

そんな公務員(自衛官)を中途で退職したものですから、何か問題を起こして懲戒免職処分になったと同列な立場に置かれたのです。

それゆえ、どうやって仕事探しをすればよいのかが全く見当すらつきません。なんとなくハローワークへ行くものだと気づき、とりあえずは足を運んでみました。

しかし、ハローワークで求人票を検索しても、48歳、職務経験なしで30万円以上もらえる仕事というのは当然ながらありません。

当たり前ですよね(苦笑)

前提として48歳にもなったら正社員として就職するのは至難の業だし、社員になって僅かな給料で時間の拘束を受けるのは厳しいです。

なので非正規雇用となりますが、どうせなら歩合制で自分の頑張りで稼ぎたい。

今なら稼ぐなら迷わず営業職だと思いますが、その時は営業という仕事そのものを知りませんでした。

社会人として30年も稼ぐという概念を知らなかった公務員ですから、まぁ当然です。

今ならネットの求人サイトで探すのが普通だと知っています、その普通が解らずどうやって仕事を探すのかまったく検討すらつきません。

で辿り着いたのが、新聞折込チラシに入っていた求人広告です。

そこで一番最初に目に入ったのが、新聞折込チラシを新聞販売店に配達する深夜トラック運転手。

この仕事なら(30〜50万円と)給料もいいし、昼間も自由になるし、一人で気楽に働けるし良い感じ。

自衛隊で大型免許も取らせてもらいましたので、トラックの運転も不安なくこれだと思いました。

すぐさま電話で面接アポを取り、即入社(社員ではなく歩合払いの雇用)を決めました。

と、ここまで読んでわかると思いますが、私は他との比較検討して何かを決める(選ぶ)ということをしません。

子供の頃から、人生の出来事すべてを第一印象の直感だけで即決してきました。

就職も結婚もマイホーム購入も、そして馬券も、すべて即決断実行です。

結婚は文通相手で当時高校生だった奥さんに初めてあったその日に求婚し翌年に入籍。現在結婚生活30数年目。

マイホーム購入は私の即断即決に逆に不動産屋が驚いて「ホントですか?」という感じ。

そりゃ何ごとにも失敗やトラブルは多いですが、自分でなんとか解決して終わりよければすべて良しです。

長い目で見れば、どんな出来事にも何らかの意味や必然性があると思っています。

だから他人が用意した複数の選択肢から選択するより、自分の直感で即決したほうが人生の後悔がありません。自分で決めたからこそバイタリティに行動できるのです。

ルール2「自分の直感に従え

次回はPTAのお話です。

  →  次回に続く

じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

40、50代で再起する人のために伝えたい復活マインド。48歳で落選したら無一文は想定外の人生だった~その 1「死ぬ以外はすべてすり傷」

今から四年前の春、正確には2015年4月第3日曜日の夜、県議会議員選挙に立候補した私は、小さな選挙事務所で自分が落選したことを知りました。

 → 選挙開票結果

開票速報が発表されるごとに落選の色合いが強くなり、それに従って事務所から人が一人二人と少なくなっていくというリアル感。

時折、友人が駆けつけてきては健闘を労ってくれましたが、私と事務局長の二人だけになった真夜中すぎにしみじみと落選したことを実感しました。

選挙の半年前に30年間勤めた陸上自衛隊を依願退職した私は、この日から正真正銘の無職です。

一千数百万あった退職金も、半分は防衛省共済組合から借りていた住宅貸付の返済となり、残りは半年間の生活費と選挙費用でほぼ底をついています。

更に残務整理をしていく中で生活費が足りなくなり、手持ちの銀行系カードローンから借りて充当する始末。

落選して無職が確定し、退職金を使い果たして無一文。さらに数千万の住宅ローンと数百万の借金を持つ身となりました。

しかも選挙に立候補するためには退職しなければならない元自衛官(公務員)ですから、もう元の仕事にも戻ることができません。

よく言われることですが、選挙に落ちたらホントにタダの人になります。それまで寝ているとき以外はスーツ姿で人々から注目してもらう姿から、一気にただの無職になります。

翌朝、というか翌昼、それまで半年間の疲れが一気に身体を襲い、全身疲労で歩くのもやっとな感じ。とりあえずは全身マッサージを受けてなんとか動けるようになりました。

落選後一週間は、それまでお世話になった方へのあいさつ回り、そして選挙の残務整理であっという間の出来事です。

どこへ行っても「また4年後に頑張りますのでよろしくお願いします」を元気一杯に繰り返します。

でもこの時は、その後の4年間がどれほど大変な日々になるかがまったく想像すらできませんでした。

残務整理がすべて終わり、馴染みのお弁当屋さんから労いの言葉をもらったとき、これですべて終わってしまったと痛感。ホントに気が抜けて涙が止まりませんでした。

人によっては心機一転リフレッシュし、その後の身のフリをじっくり考えるという人もいるでしょう。

ですが私の場合、家族を養うというとても現実的な問題に直面することになります。

まだ幼児と中学生を持つ父親。そして奥さんは体調的に働くことが困難な状況。

なんとしてでもお金を稼がないといけない。落選1週間後には、待ったなしで仕事探しが始まりました。

ルール1「死ぬ以外はすべてすり傷

  →  次回に続く…

じゃあ、またね〜 Σ( ̄。 ̄ノ)ノ